わが街の自慢の史跡・記念碑
沖野岩三郎顕彰碑
「偉人の姿を伝え続けていきたい」と話す福島栄助さん(右)と森岡茂春さん(左)=日高川町寒川で
沖野岩三郎顕彰碑=日高川町
日高川上流にある「清流とホタルの里」、日高川町寒川。人口約470人の自然豊かな山あいの里に、「地元が誇る記念碑がある」と、町文化財保護審議委員の福島栄助さん(76)と旧美山村議会議長をつとめたこともある森岡茂春さん(76)の2人が案内してくれた。
旧寒川村出身の小説家、宗教家で、評論家でもあった沖野岩三郎(1876~1956)の顕彰碑である。
沖野は和歌山師範学校を卒業し、川原河や龍神、母校の寒川各小学校で訓導や校長をつとめたあと、キリスト教の洗礼を受け、故郷を離れる。上京して明治学院神学部を卒業後、赴任した新宮教会で伝導活動中に1910年の大逆事件に巻き込まれる。
沖野はあやうく難を逃れたが、親友の医師が被告となった。沖野は特高刑事に尾行されながら、著作活動を続け、事件の犠牲者遺族の救済にも尽力した。1917年、医師をモデルに事件の一断層を描いた作品「宿命」が大阪朝日新聞の懸賞小説に入選して文壇に登場。その後、「星は乱れ飛ぶ」などを次々と発表し流行作家となった。
沖野の文芸活動は小説、童話、歴史、評論、随筆と多岐にわたり、特に「自分の天職は、日本の童話界に尽くすこと」と語っているように、全国各地に童話行脚をし、各地のこどもたちから大歓迎を受けたという。
asahi.com マイタウン>和歌山 2006年03月27日
事件の影響で沖野の存在は長く故郷の人たちから忘れられていたが、81年に和歌山市の中学教諭、浜野重治さん(55)の研究誌「教師時代の沖野岩三郎」が出版されたのを機に、地元で「先生の功績をたたえて顕彰しよう」との運動がおこり、実行委員会をつくって82年10月、顕彰碑を建立。浜野さんらの協力で未発表資料による「沖野岩三郎自伝」を500部出版した。
顕彰碑は県道沿いに立ち、高さ約1.5メートル、幅1.8メートル。碑の正面には沖野の自作「日高川 名を聞くだにも 恋しかり われをうみにし 母の在せば」の歌が彫られ、裏面に経歴や功績が記されている。
沖野は26歳のとき寒川を出てから80歳で長野県軽井沢で死去するまで、ふるさとに足を踏み入れることはなかった。「事件のことで故郷の人たちに迷惑をかけてはいけない、と思っておられたのでしょう。でも、先生の作品には紀州を背景にしたものも多く、自伝の中でも月2、3回は郷土の夢を見る、と書いておられる。先生の強い望郷の念をくみ取り、この歌を彫り込んだ」と福島さん。
顕彰事業実行委員会の事務局をつとめた森岡さんは「当時、先生の偉業を知っている地区民は3割もいなかったでしょう。でも、この顕彰事業でほとんどの人が先生の偉大さを知ったと思う」と話す。
事業のきっかけとなる研究誌を著した浜野さんは「ユーモアと人情あふれる地元の人たちの深い理解があったからこそ実現した」と、地元の人たちの精神と努力を称賛している。
福島さんらは言った。「先生はあの暗い時代に、最後まで思想の自由と抵抗の姿勢を変えなかった。世界に通用する郷土の偉人の姿を今後も伝え続けていきたい」
(森滋)
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