捕虜虐待 日高支部 Y・Y
敵、潜水艦「紀伊水道」に接近の噂は聞いていたが一九四四年はじめ頃になって「市江崎沖」や「潮岬」西方でも発見されたとか、「見老津」沖では、我軍の「機雷」による「自爆」で磯に死んだ「魚」が波で揚がっているのを拾ってきたとかの、ひそひそ話が聞かれるようになっていた。
そんなとき「貨物列車」による「捕虜輸送」の連絡が入った。緊急も緊急、貨物列車が駅に着く「十数分前」のことであった。貨物列車の後部から五両目「家畜車」であることは連絡に加えられていた。駅の職員、日本通運の作業員らは、手錠をかけているか、足枷か、囚人服は着せているかなど勝手に想像しながら列車の到着を待った。
定刻に到着した捕虜を乗せた車両は「牛馬」専用の貨車で、繋がれていないだけが動物との違いだった。家畜車に「放し飼い」になっている捕虜は立っている奴、座っている者、煙で「真っ黒」な顔、目と白い歯だけが目立っている。
貨車に近寄ると、何かを求めているのか、怯えているのか両手を合わせている者もいる。足元に小石の転がっているのを見ると、外から投げつけたものだろう。三月初めの寒さに震えている彼らに罵声を浴びせるもの、貨車を足蹴にするもので、数分は過ぎて、連結器の大きな音とともに発車した。
(不屈日高版 №138 2006.4.15)