一 戦争責任とはなにか
2 三種類の戦争犯罪
戦争には必ず勝者と敗者があり、勝った方が負けた方から領土や財宝をとりあげたり、負けた方の人びとを殺したり奴隷にしたりすることは、大昔からありました。しかし近代に入るころから、戦争にもルールがあり、勝ったからといってなにをやってもよいのだということはない、という考え方がでてくるようになりました。戦争が終わったあとでは講和会議がひらかれ、講和条約が結ぱれて戦争の後始末をするようになったのです。もちろん、この場合も、勝った方が負けた方から領土や賠償金をとりたて、責任者を処罰したりするのですが、それでもそれは一応戦争当事者間の条約という形をとるようになりました。
こういう形がさらに発展したのが国際軍事裁判です。これは第二次大戦後にはじまったものですが、これはまず条約や協定によって戦争犯罪をきめておき、戦争のさいにこれに違反する行為があったかどうかを、裁判によってあきらかにし、違反があったときは処罰するというやり方です。したがって、建前としては戦争の勝ち負けに関係なく、条約・協定違反を裁くことになるのですが、しかし現実には勝者が敗者を裁くという内容になっていることは否定できません。
こういう形の国際軍事裁判は、第二次大戦後のナチス・ドイツを裁いたニュルンベルク裁判(一九四五年一一月から四六年一二月まで)と極東国際軍事裁判(東京裁判、一九四六年五月から四八年一一月まで)の二つがおもなものです。そのほかに、のちにのべますB級C級戦犯を裁いた裁判があり、現在はこういう裁判所を常設しようという動きもあります。
これらの裁判をはじめる前に、三種類の戦争犯罪がさだめられました。
(A)「平和に対する罪」。これは侵略戦争を計画し準備し開始したという罪です。
(B)「戦争法規違反の罪」。戦争法規というのは、たとえ戦争中であってもこういうことはしてはいけないという約束(条約、協定、議定書、宣言など)のことで、これはたくさんありますが、戦前のおもなものは「妻ガス等の禁止にかんする議定書」(一九二五年)、捕虜虐待禁止条約(一九二九年)などです。日本政府は養ガス禁止議定書には一九二五年に署名だけはしたのですが、どういうわけか、国会の承認はうけられず、国会がこれを承認したのはじつに署名いらい四五年もたった一九七〇年のことでした。捕虜虐待禁止条約も戦前は軍部の反対にあってこれに加入せず、加入が実現したのは一九五三年のことでした。
(C)「人道にたいする罪」。これは軍人以外の人びとにたいして非人道的な行為をおこなったものの罪です。
この三種類の戦争犯罪のうち、(B)は戦前からきめられていたものですが、(A)と(C)は一九四五年八月八日のロンドン協定できめられたものです。一九四五年八月八日というとドイツはすでに降伏しており、日本の降伏の一週間前、そして、さきにのべたように、この年の一一月からはニュルンベルク軍事裁判がはじまるのですから、正直なところ、ロンドン協定はやや泥縄的という感じもしますが、とにかく戦争犯罪というものをあらかじめきめておいて、それから裁判にかかったのでした。
A級戦犯、B級戦犯、C級戦犯というのはこの三種類の戦争犯罪のどれにあてはまるかによって、きめられたのです。
なお、最近、さきに述べたように、戦争責任をあいまいにし、歴史の事実をゆがめようとする人びとは、「東京裁判は勝者の一方的な断罪で不当なものだ」といっています。映画『プライド』もそういう考え方に立っています。そして戦後の日本人の考え方は、こういう一方的な東京小裁判の決定をそのままうけいれ、自分の国を悪者のように見ているとして、こういう歴史観を「自虐史観」とか「東京裁判史観」とかと名づけて攻撃しています。のちにのべますように、私も東京裁判が全面的に正しかったとは考えていません。しかし裁判という形をとるにせよ、とらないにせよ、戦争犯罪人の処罰ということはポツダム宣言の第一〇項にかかげられており、日本はこれをうけいれて無条件降伏をしたのですから、その処罰を不当ということは国際的な約束に反することです。なお、すでに処罰が終わってからのことですが、一九五一年のサンフランシスコ講和条約でも、その第一一条で戦争犯罪人の処罰がさだめられています。
戦争責任と国家賠償 浜林正夫