和歌山弁護士会主催
「憲法施行60周年記念市民集会」
討論「憲法どうすんねん!」
月山桂弁護士(「九条の会・わかやま」よびかけ人)の発言要旨
本紙35号でお知らせしました5月11日の市民集会での月山桂弁護士の発言要旨をご提供いただきましたので、4回に分けて掲載しています。(最終回、見出しは編集部)
第4問
新しい人権を入れるために改正した方がよいか
→ どちらとも言えない
新しい人権は9条改正の可否とは別の機会に発議されるべき
環境権等を憲法に織り込みたいと主張する者がある。その願いを否定するものではないが、それは、9条改正の可否とは別の機会に発議されるべきだと考える。軍隊のように、自衛権の名の下に軍隊を保持し、戦争を容認することは、環境権とは相容れないものである。そのことは、軍隊が歩いた足跡を見れば、明らかである。ベトナム、アフガニスタン、イラクまでゆかずとも、広島、長崎を見れば明らかである。軍隊や戦争ほど端的に環境を破壊するものはない。これを容認しようとする9条の改正と、環境権の規定を同時に発議することは、相反する理念を、いわば味噌もくそもごっちゃにして、環境権という美名の下に、9条の改正がごまかし的に取り込まれてしまう危険がある。
ただ一点、新しい人権を入れるためではなく、現在ある憲法の規定を、より充実、強化する必要のあるものがある。それは、表現の自由に連なる報道規制の問題である。私が提言したいのは、憲法は、その条文中に、国は、如何なる場合にも、「報道の自由を侵してはならない」「報道規制をしてはならない」ということを明記するということである。現在は、情報化社会といわれる。我々にとって身近な情報は、テレビ、ラジオ、新聞といったマスコミ情報である。国民の多くは、この情報の中で、国や社会の歩むべき道を探り、自らの歩むべき道を決断しているのが一般的ではなかろうか。 この情報の源をどこまでも大切に守ることが必要であり、報道の自由の確保や報道規制の禁止を表現の自由の規定・表現の自由という言葉の中に十把ひとからげに埋没させてしまうことは、民主主義社会の窒息に連なる虞れがある。
これは、前大戦が、報道規制によって、国民の目を覆い、耳を塞ぎ、国民を欺いて遂行されていったことへの反省でもある。すなわち、1941年12月に太平洋戦争が始められた。1943年の12月に、私たちは、いわゆる学徒出陣により戦争に狩り立てられていった。1945年の4月からは、小学生に至るまで、学業を放棄させられた。その間、政府は、国民に対し、本当の情報を提供しなかった。報道されるのは、大本営の威勢の良い発表、これに類する政府機関の報道しか許されなかった。私たちは、軍や政府の言うとおり、この戦は正義の戦いと思っていたが、実態は、国策とはいえ、正義に程遠い侵略戦争だった。言われるまま、勝てると信じ、「欲しがりません、勝つまでは」と辛抱して戦ったが、敗戦は、開戦の翌年、昭和17年のミッドウェー海戦の大敗で、既にほぼ決定していた。このように報道が規制され、国民を欺く情報操作がなされたため、いかに悲惨な結果がもたらされたか。
最近、政府あるいは与党が、NHKの報道に関し、容喙(ようかい=くちばしを入れること)したとか、しないとかいうことが問題になっている。極めて危険なことである。そこで、私は、今は、新しい権利を謳うよりは、今ある権利の中味を充実させること、より研ぎ澄ましたものとすることが大切であると思っている。(終り)
2007・07・05 「九条の会・わかやま」39号(2)