随筆 「良くなって・・・もう一度」
東カズヱ没後68年記念に 日高支部 K T信
曇ったり晴れたりの8月2日の午前、私は深海龍彦さんと水清き谷あいのむらざとを訪ねた。すでにその人は過去の人ではなく、わが日高に帰ってきた。
「叔母には京都でもあっています。結核で京都で亡くなり、この家で葬式の日、私は五歳でしたが、遺骨を抱いて悲しんだ日のことを覚えています。みんな泣いていました。」
印南町にご健在の甥御さん(七三歳)は、幼い日、おばあさんから聞いたという話をしてくれる。
日高の女学校に通っていたころ絣の着物に白線一本の袴、塩屋のあたりまでわら草履でいき、そこで制靴に履きかえた。鰹島への遠泳で優勝したり、副級長もしていた、と。
京都の女專を卒業してがんばっていたけど、特高に追われる日々。札幌の親類宅に匿われたり、紡績工場の女工さんの中に入ったりして。なんで共産党に入ったんやろか、女專の学生の仲間たちと、社会の矛盾に正義感が燃えないでいられなかったんやろか。
原爆詩人、峠三吉の兄嫁である峠あきのは、東カズヱを回想した。
彼女は謄写版のすばらしい技術をもっていた。
京都の兄さん(楠次郎氏)宅で、結核で寝ているのを見舞いにいった。
屋根裏のうす暗い部屋は、光がほとんど入らない。
鼠がコトコト音を立てて階段を上がったりおりたり。
粗末な寝台に見るかげもなく細った体を横たえて。
それでも、なつかしそうに細ぼそと、「良くなって・・・・・もう一度」と。
彼女の最後が、私たちには分からない。
命がけで活動した同志の末路に、痛恨の思いである、と。
治維法同盟県本部藤沢弘太郎会長による資料提供がなかったら、東カズヱは歴史のなかに埋没されていたかも知れぬ。
私は深海さんと東家を訪ねたその日の午後、すぐ日高高校の同窓会事務局に電話をした。
「創立70周年記念の年に刊行の会員名簿に、東カズヱさんがでていませんが、念のために卒業証書授与原簿で確かめてください」と。女專入学年度が確定しているので、卒業推定の年も説明した。
誠実そうな女性のかたは面倒くさがりもせず、一時間近くして、
「申し訳ございません。第十三回(昭和二年)卒業生です。朱記して再刊時には必ず」と、生年月日もお教えいただいた。
そのことから翌三日には生存している同期生を訪ねることもでき、「東さんはずっと乙組の副級長をしていて、思慮深い人だった」と、知らせてもらったりした。
八月二十三日、私は深海さんと、吉岡由助氏の案内で、明神川の小高き丘にある浄土宗の專光寺を訪ね、若きご住職に導かれて東カズヱが眠る墓前に詣で、野辺の白百合を捧げた。坊守さまからもおこころづくしを賜り、私たち同盟が発行する「不屈・日高」六九号に載る故人を、かいつまんでご説明申し上げ、一部おわたしした。若きご夫婦には菩提寺とは申せ、ご自分の檀家にかつて、そういう人間が存在したなどとは、初めて聞く話ではなかったかと思う。
私は山寺をくだり、深海さんとその足で、一路日高高校に向かった。卒業証書授与原簿から綿密な調べをしていただいた女性へのお礼と、できれば何かほかに手がかりでも得られればと。
およそ半時間、あらたなことは得られなかったが、直接お会いでき、電話で受けた以上のその真摯な姿勢に、今後の踏査への意味を鼓舞された。
・・・・・・・紀和の境にわき出でて(校歌)わが愛する母校日中・日高に、脈々と熱き心の通う、このスタッフら在りて。私は辞去するに幾春秋ぶりか、校門を仰いだが、初めて涙があふれた。
私は五十年来の盟友、深海さんとともに、いまは戦前の治安維持法による犠牲者の、国家賠償を求める全国的な組織、略称治維法同盟の県本部の役員もしているが。
この法は侵略戦争反対、主権在民を唱える政党、団体、宗教家や知識人などの根絶をめざした、最高刑は死刑という世界に例のない法律で、終戦の年の十月、連合国の指令で禁止されている。
日高地方では、この法による検挙者は有名な二か寺のご住職さんはじめ十六人おられるが、志なかばで斃れた女性は、和歌山県内では東カズヱのほかにない。
現在、印南、南部、南部川、龍神の四か町村の議会でも、「国家賠償法の制定を求める意見書」提出の、請願書がすでに採択されている。
人の命は短くて、二十一歳の一期に、昭和七年逝くも、
「良くなって・・・・・・・もう一度」
志高く屈せず、終わりをまっとうする。
わが日高が生んだ東カズヱは、わが日高に帰ってきた。
東カズヱ・略年譜
○ 明治44年3月16日 父東文五郎 母クマの二女として日高郡稲原村立石373(現印南町)に生まれる
○ 昭和2年3月県立日高高等女学校卒業 4月京都女子高等審問学校(現京都女子大)国文科入学 在学中から社研に参加
○ 昭和5年3月同校卒業 6年大阪にて赤色救援会へ参加 日本共産党に入党 党大阪市委員会アジプロ部に所属して活動
○ 昭和7年発病 同年10月23日京都にて死去 享年21歳
日高新報 2000年9月10日(日曜日)掲載