戦争はいやだ
太平洋戦争が始まった昭和十六年十二月八日、私は村の中で結成された女子義勇隊の一員として、大阪府下の軍需工場へ行っていた。短い六ヶ月の期間だった。
戦争が拡大され、日増しに配色が濃くなってきた昭和二十年初め頃、軍は、私の田舎の山にも穴をあけて兵器弾薬を隠した。兵器補給厰の常駐犯が置かれていた。私は、徴兵逃れにその兵器補給厰に勤務した。
家から二里の道を歩いて往復した。範囲は三名ほどの兵と二、三人の軍属がいた。兵は兵器弾薬の歩哨をしたり、毎日周囲の部落への野菜の徴集に言って、食事を作った。毎日野菜の煮物や、野菜サラダのお菜ばかりだった。
時々、勤務の往き帰り、艦載機の機銃掃射を受けそうになって、道の横の溝にかくれ伏した。 昭和二十年八月十五日敗戦となり、一緒に勤めていた通訳の資格を持つ軍属の人が、悔し紛れに通訳の身分証を破り捨てた。私は、それほどに腹の立つ思いはなかった。それよりも灯火管制の暗い嫌な夜、学生もみな軍需工場へかり出され勉強もできない一家の父や兄が戦死して帰らない、広島や長崎で幾十万の人が死んだ。国土の多くが焦土と化し多くの人が死んだ。
こんな悲しみをもたらす戦争はもういやだ。思えば六十年間いろいろあったけれど、導いてくれる人やグループがあって、職場にも、過程にも、住む街にも、は岩と人権が常に希求され、貧困がなくなるようねがってその道を歩んでいる。憲法九条を死守したい。
(御坊市・T・S子)