憲法9条は仏陀の教えである。何物にも代え難いものである
「九条の会・わかやま」呼びかけ人・高木歓恒さん
9月16日「守ろう9条 紀の川 市民の会」の第4回憲法フェスタで、憲法9条について高木歓恒さんが宗教家として話されました。その大要をご紹介します。
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憲法には前文に恒久平和、そしてもちろん9条は戦争放棄。これは人間が作った憲法ではありませんね。誰が作ったのか。人間を超えた大いなる神様や仏様から遣わされた憲法かなあと私は考えています。人間技ではできません。一切の自己の利益を放棄し、人類の恒久平和を願った素晴らしい憲法です。この憲法は仏陀の教えそのもの、お釈迦様の教えそのものだと、そういう風に理解をさせていただいております。
仏陀の教えとは
仏陀の教えとは、要は戦争をしないという教えです。小さな戦争というのは争いです。人間が2人おればいさかいが起ってきます。怒りや恨み、妬(ねた)み、嫉(そね)みです。そこに驕(おご)り、高ぶり、媚、諂(へつら)い、人間の感情が争いを起こしていく訳ですが、そうしたものを浄化していく、豊かにしていく、他人の心は清らかにできませんけれど、自分の心を見つめることによって、自分の心の奥底にある怒りや恨みや妬みや嫉み心、いわゆる戦争の発端になるそういうものを浄化していこうという教えであると、そう思っています。
それ自身の心をしっかりと
お寺にいますと、いろんな方が来られます。「ちょっと言われた一言が気に入らん。昨日一晩眠れんかった」と言うのです。内容を聞いたら他愛もないことです。でも、ちくっと自分を刺されたということで、気に入らんというのです。それで私は「あんたに言うた人はよう眠てるで」。お分かりですか、言った時点でもうその人の問題ではなくなっています。それをもらった私の問題になってしまう。だから、私がそれに対して怒りや恨みをもって一晩眠れないと言う。その私の心をどうにかしなければ争いは消えないということです。もちろん言った者にも問題はありますけれど、まず、我が心の中にある怒りや恨みや妬みや嫉み心を見直す必要があります。
もうひとつ、あるお母さんの話です。長男が結婚し、一緒に住んでくれるのかと思っていたら、さっさと駅前のマンションで生活することになりました。3ヶ月後頃に電話があり、遊びに来てくださいと言う。喜び勇んで行ったところ、長男は風呂場から大きな籠をさげてベランダに行きました。洗濯物乾しですね。それを見たとたんにお母さんは頭に血が上りました。「今からこれか。この先が思いやられる」と。しばらくして、3年前に結婚した娘の方から「孫の顔を見に来るようにと」電話があり、大喜びで出かけました。娘が料理をしている間、お婿さんは風呂場から籠を持ってベランダに行き、乾しだしました。それを見たお母さんは「まあよくできた婿だこと」とうれしく思いました。何にも変わらないのに、どうして怒りと、うれしさの、2つの違った感情が生まれてくるのでしょうか。それは心の中に自分にとって都合のいい方しか応援しないという心があります。自分にとって得になるもの、利益になるもの、そういう感情が怒りにもさせ、喜びにもさせているという、要は私の心の奥底に大きな問題があるのではないか。仏陀、仏教、釈尊の教えとはそれ自身の心をしっかり見よという教えです。
仏に頂いた教えを守る
さて、憲法9条ですけれど、個人の人間が自己の利益のために考えるとこんな憲法はできません。憲法、法律、政府、人が作ったものです。人が作ったものというのは、時の為政者によって変わっていきます。戦争をしてはいけないという憲法が、人が変わればいつでも人を殺しに行く。人を殺してはいけないという理念は誰が守るかというと、人間が作ったものではなく、それを超えたもの、そこに宗教性がある訳です。神や仏からいただいた教えを守っていく、絶対的な教えの下に宗教家として今日ここに立たせていただいて、憲法9条そのものは仏陀の教えである、何物にも代え難いものであるということを、みなさんともにお味わいさせていただきたいと思います。
2007年09月25日 「九条の会・わかやま」47号(1)