(前回の続き)
おばさんの日記には、さらにこんな記述がありました。
(1994年8月21日)
・・・テレビで、49年前、佳木斯(日本が満州を植民地にしていた時にチャムスという街を表すのにこの漢字を用いた)の街をあとにした人たちの映像が映された。引き上げの途中、子供を産んで助けられた人。子供は無事育ち49歳に成人していた。お産を手伝い心を残して去った人、今は82歳、牛尾とかいう人だった。この人たちは私と同じコースで引き揚げた人たち。青酸カリを持って牡丹江方面に行ったと聞いたが。私たちは陸橋を爆破されていたので、反対方向に行った。・・・
私は青酸カリのことばに戦慄をおぼえた。だのにおばさんはなにげなく受け取ったのだろうか。一体、だれが、なんのために配分したのだろうか。もしものときに自分で自分の命を絶つようにということであったのだろうか。おばさんは中国残留孤児といわれる人たちに、大きな関心を寄せていたが、親は自殺し、子供は中国で生かしてもらうということにした結果であろう。日本の戦争による償いを放棄していると私も思う。
おばさんは生き抜いた。背中に負ぶった子の命を守りきった。私はおばさんの体験を無にしないために、憲法9条を変えさせぬよう、全国の仲間のみなさんと力を合わせてがんばります。
(Y)